イギリスの三枚舌外交
本来は民族紛争ではなかった。第一次世界大戦において連合国側のイギリスは同盟国側の一角であるオスマン=トルコに対し側面から攻撃を加える意図の下、トルコの統治下にあったアラブ人(広義:信仰上はイエフディやキリスト教徒も含む)たちに対してトルコへの武装蜂起を呼びかけた。その際この対価として1915年10月にフサイン=マクマホン協定を結びこの地域の独立を認めた。
他方、膨大な戦費を必要としていたイギリスはユダヤ人豪商ロスチャイルド家に対して資金の援助を求めていた。この頃、世界各地に広がっているユダヤ人の中でも、ヨーロッパでは改宗圧力を含め差別が厳しかった為、シオンに還ろうという運動(初期シオニズム)が19世紀末以降盛り上がりを見せていた。そこでイギリスは外相バルフォアを通じ1917年ユダヤ人国家の建設を支持する書簡をだし、ロスチャイルド家からの資金援助を得ることに成功した(バルフォア宣言)。
しかしイギリスは同じ連合国であったフランス、ロシアとの間でも大戦後の中東地域の分割を協議しており、本来の狙いはこの地域に将来にわたって影響力を確保することであった(サイクス=ピコ協定)。
こうしたイギリスの「三枚舌外交」はロシア革命が起こりレーニンらによって外交秘密文書がすべて公表されるに至り公のものとなった。ただし、それぞれの条文を厳密に適用すれば、三つの協定に殆ど矛盾はない。
第一次世界大戦でユダヤ軍・アラブ軍は共にイギリス軍の一員としてオスマン帝国と対決し、現在のヨルダンを含む「パレスチナ」はイギリスの委任統治領となった。
現在のパレスチナの地へのユダヤ人帰還運動は長い歴史を持っており、ユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かった。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、アラブ人とともに嘆きの壁事件など衝突がありながらも、安定した社会を築き上げていた。 しかし、1947年の段階で、ユダヤ人入植者の増大とそれに反発するアラブ民族主義者によるユダヤ人移住・建国反対の運動の結果として、ヨルダンのフセイン国王、アミール・ファイサル・フサイニー(1933年アラブ過激派により暗殺)、ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(1946年暗殺)、マルティン・ブーバーらの推進していたイフード運動(民族性・宗教性を表に出さない、平和統合国家案)は非現実的な様相を呈する。
国連による「パレスチナ分割決議」
後にイスラエル首相となるベギン率いるイルグン、シャミル率いるレヒ等のユダヤ人テロ組織のテロとアメリカの圧力に屈したイギリスは遂に国際連合にこの問題の仲介を委ねた。
大多数が不法移民であったユダヤ人の人口はパレスチナ人口の3分の1で、ユダヤ人の土地の所有はわずか7%に過ぎなかったが、1947年11月29日の国連総会では、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするという国連決議181号パレスチナ分割決議が、賛成33・反対13・棄権10で可決された。この決議は、国内の選挙において、ユダヤ人の投票獲得を目当てにしたアメリカ大統領トルーマンの強烈な圧力によって成立している。アメリカ、ソ連、フランス、ブラジルなどが賛成し、アラブ諸国が反対した。
1987年にイスラエル占領地でパレスチナ人の抵抗運動(インティファーダ)が始まる。
1991年10月マドリードで中東和平会議開催、1993年9月パレスチナ暫定自治協定がワシントンで調印された(オスロ合意)。その結果1994年5月よりガザ・エリコ先行自治が開始され、自治政府も組織されはじめた。PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相、ペレス外相がノーベル平和賞を受賞した。
1996年1月にパレスチナ評議会の選挙が行われた。 その矢先の1995年11月和平に尽力したイスラエルのラビン首相は和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルに射殺された。 イスラエルでは概ね労働党が「和平推進」(エルサレムとヨルダン川西岸の戦略的に重要な土地を併合)、リクードが「和平反対」(パレスチナ全土を併合)であった。和平は合意された為、枠組み自体が崩されるまでには至っていない。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
パレスチナ問題について調べました。
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